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商品説明
万延元年・遣米使節史料集成・7冊/昭和36年/日米修好通商条約の批准書交換・使節は米国にとっても未知の世界の珍客を迎えることであった
万延元年・遣米使節史料集成:昭和36年 。部数は少なそうです。資料用にもいかがでしょうか。
万延元年遣米使節
まんえんがんねんけんべいしせつ
幕末,万延1 (1860) 年日米修好通商条約 (→安政五ヵ国条約 ) の批准書交換のため,江戸幕府がアメリカに派遣した最初の幕末遣外使節。正使に外国奉行新見 (しんみ) 正興,副使に同村垣範正,立合いに目付小栗忠順が任じられ,幕臣のほか佐賀,熊本,仙台,加賀,土佐その他諸藩の藩士をも随員に加えた 77人が,同年1月アメリカ艦『ポーハタン』号に搭乗。別に木村喜毅 (芥舟) ,勝義邦 (海舟) は中浜万次郎,福沢諭吉らを加えた総勢 96人で幕府がオランダから購入した『咸臨丸』でサンフランシスコまでこれに随行,同乗のアメリカ測量船員たちの援助で日本人初の遠洋航海に成功した。使節一行はハワイを経由してワシントン D.C.で大統領 J.ブキャナンに謁見し,批准書交換をすませた。当時の日記,紀行類は『万延元年遣米使節史料集成』 (7巻) その他に収録されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
万延元年・遣米使節史料集成・7冊
日本が南欧諸国と通交を開始したのは、十六世紀のことであった。この頃の日本は戦国動乱のさなかであったが、織 田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三武将によって統一され、近世の日本が現出した。これは米国が独立して合衆国となる約二世紀以前である。この米国独立宣言の年は、わが安永五年であり、幕政はすでに田沼時代という最盛期をすぎて、下降 期に向いつつあった。
米国は若くして、世界資本主義社会の新天地となっていた。十九世紀にはいると、めざましい発展をとげ、いきおい、太平洋を越えて中国に市場を求めるようになった。東洋市場に覇権をにぎっていたイギリスに一歩さきんじて、米国が日本を開国せしめたのは、日本が北米大陸と中国本土とを結ぶ太平洋上の一隅にあったからである。
日本の開国は、封建末期の日本が、世界資本主義発展のなかにおいて、遅かれ早かれ、到達すべき必然であった。しかし、この開国と通商条約の締結とが、新興の米国によって導かれたことは、日本の国際社会への登場をかなり大きく左右した。安政条約が結ばれた一八五八年は、英・露の清国侵略が一段と強化され、五月には露・清間に愛理条約が、また英・ 仏両国が先頭にたって天津条約が締結されている。ハリスが対日通商条約の調印を急いだのも、このような緊迫した情勢 に焦慮した結果であった。この列強の勢力関係は、米国の対日関係を牽制したし、また幕府もこれを利用して英・仏にあ たるという手段をとった。
長年にわたる鎖国の慣習によって海外と隔離していた日本が、開国に当って、何よりもまず要求されたことは、西洋文物の吸収であり、それには西洋諸国との接触が必要であった。一八六〇年(万延元年)の遣米使節の派遣はその実現の第 一歩であった。通商条約草案の商議に当ったわが全権井上清直・岩瀬忠震が条約本書批准交換のために使節の派遣を提案してハリスを驚かせたのも、幕府の要路者に、開国に対する積極的な用意のあったことを示している。
幕府は、この第一回についで、一八六二年(文久二年)の遣欧使節竹?下野守一行、翌六三年(文久三年)の遣仏使節池 田與後守一行、一八六六年(慶応二年)の遣露使節小出大和守一行、最後に一八六七年(慶応三年) の遣仏使節民部公子徳川照武一行と、数回派遣している。この遣外使節は、それぞれ外交上の使命を帯びていたが、幕府はこれに西洋文物の初祭を兼ねしや、少壮の俊才を選んで随員として参加せしめていたから、外交使節は同時に文化使節でもあった。
幕府は、このほか留学生の派遣を行った。その第一回は、一八六二年(文久二年)、オランダに赴いた海軍の留学生で、六武長、赤松則良等の士官と、これに法律経済学の留学生西周・津田真道が参加した。幕府のほかに、薩摩・長州等の 諸藩からこれが派遣され、その一部は米国へも渡航している。これらを合わせると、幕末期のわずか七、八年の間に、 日本人の行きはかなりの人員にのぼっている。
このように、多文化使節の派遣は、開国当初の万延元年から、明治の初年まで引きつづいて行なわれ、一八七一年
(1) おも二、三年(五、六年)にかけた岩倉全権大使一行の米欧回覧がその最終にして、 且つ最も大規模なもの でも、平等生、准書交漢のためであり、最後の使命が、その改正交渉着手のためであったことも奇しき因縁である。
万延元年の使節は米国にとっても未知の世界の珍客を迎えることであったちょんまげに帯刀の風姿は彼らの目にどのように映じたであろう。施設の一行はサンフランシスコ上陸以来各地で大歓迎を受け新聞紙に大きなニュースを提供した。日本との通商条約の締結は米国にとっても新しい歴史の開始であった。
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品ですので傷・黄ばみ・破れ・折れ等経年の汚れはあります。第7巻外箱欠。表紙傷、小汚れ。ページ小黄ばみ、ややしみ。第7巻は表紙と巻頭数ページシミ。その他2-3冊ぱらぱらとめくった感じでは、書込み・線引き等見当たりませんが、見落としあればご容赦ください。
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